島民の抑留と戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 07:35 UTC 版)
アレウト住民40人、1942年9月17日に「陽光丸」でアッツを出航、キスカ島で「長田丸」に乗り換えさせられ、9月20日にキスカ島を出港した:86。船は北海道の小樽港に入港し、アレウトたちは小樽市内に収容されることになった。当初は若竹町(現在の勝納町)の木造施設に収容され、1944年に清水町に移された。アレウトたちは占領時にすでに結核を患っている者が多く:87、慣れない環境、乏しい食料事情の中で多くが亡くなった。小樽に抑留されたアリュートは、小樽で生まれた5人を含めて45人であり、うち20人が抑留中に命を落としたという(小樽で生まれ、生き延びたのは1人だけであった)。 小樽に移されていたアレウトの島民は、戦争が終わった時25人が生き残っていた。合衆国当局はかれらの置かれた状況を把握していなかったと言明した。合衆国政府ははアッツ島の村を再建維持するには十分な人数がいないとして帰島を認めず、850km離れたアトカ島に送られた。
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