岩城常隆 (下総守)とは? わかりやすく解説

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岩城常隆 (下総守)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/15 08:31 UTC 版)

 
岩城常隆
時代 室町時代 - 戦国時代
生誕 不明
死没 永正7年11月27日1510年12月27日[1]または天文11年2月9日1542年2月23日[2]
別名 平二郎[3]
戒名 可山明繁[4]/可山繁公[5][6]
墓所 福島県いわき市 禅勝山龍門寺
官位 従五位下[4]下総[4][3]左京亮[4]
氏族 岩城氏
父母 父:岩城親隆、母:岩城隆平娘[4][3]
兄弟 大館隆景室[5]常隆、車隆景
白土隆衡娘[4]
盛隆、由隆、船尾隆相、菊田隆道、
富岡隆時田村義顕室、那須政資室、
喜山妙悦禅完尼[7]佐竹義舜正室)、
上遠野長秀室、等計50人[6][8]
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岩城 常隆(いわき つねたか)は、室町時代から戦国時代にかけての武将岩城氏11代当主。陸奥国大館城主。

略歴

岩城親隆の嫡男[6]として誕生。永享12年(1440年)、父・親隆と共に結城合戦での軍忠を室町幕府6代将軍足利義教から賞されている[4]寛正4年(1463年)、那須資房や宇都宮義員らと交戦し勝利するも、縄釣原の戦いでは資房に大敗を喫した[9][4]

家督を継いだ当初は隠居した父・親隆と共同統治する[10]文明17年(1485年)、佐竹氏領の砥上某の車城、大塚成貞の龍子山城を攻め落としている[11]

文亀2年(1502年)、佐竹義舜に助力し山入氏義討伐に協力した[12][4]。また、白河結城氏の内訌や古河公方家の内紛(永正の乱)に乗じ、これに介入し勢力を広げ、岩城氏の全盛期を築き上げた。

子・盛隆に家督を譲ったがまもなく当主は盛隆の弟・由隆に代わり、常隆は父・親隆と同様、隠居として由隆と岩城氏を共同統治した。永正11年(1514年)に那須氏(上那須氏)で内紛が勃発し、那須資永結城顕頼の弟)が自刃に追い込まれ、那須政資(下那須氏当主那須資房の子)が上那須氏の当主になると、結城顕頼の求めに応じ那須氏を攻めたものの戦果は挙げられず、縁戚関係を結んで那須氏と和睦したとされる。

脚注

  1. ^ 大日本史料』第9編之2 927頁
  2. ^ 『岩城家略記』
  3. ^ a b c 『岩城系図』
  4. ^ a b c d e f g h i 『亀田岩城家譜』
  5. ^ a b 『寛政重修諸家譜』
  6. ^ a b c 『諸家系図纂』
  7. ^ 『常陸三家譜』
  8. ^ 「磐前腹、下總守、御子數五十人、」
  9. ^ 『史料綜覧』第7編之908 158頁
  10. ^ 親隆は白土城に拠ったが、その没後には家臣の白土摂津守の一族が入った。
  11. ^ 『常陸史料』
  12. ^ 『史料綜覧』第8編之909 125頁

出典

  • 『亀田岩城家譜』
  • 『岩城系図』(陸中)
  • 寛政重修諸家譜』(五百十二)
  • 『諸家系図纂』(十四下)
  • 『岩城家略記』
  • 『常陸三家譜』
  • 『常陸史料』(三 佐竹氏譜上)



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