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岡部吉正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/13 09:27 UTC 版)

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岡部吉正
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正元年(1573年
死没 正保4年8月25日1647年9月23日
改名 忠正、吉正
別名 小次郎、小右衛門
戒名 寿泉
墓所 長光寺(埼玉県飯能市
幕府 江戸幕府旗本
主君 松田憲秀徳川家康秀忠家光
氏族 小野氏岡部氏
父母 岡部忠吉、藤橋越前守の娘
兄弟 吉正、忠房、正次、久左衛門、武秀繁の妻、女子、酒依昌吉の妻
土屋昌吉の娘
吉次
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岡部 吉正(おかべ よしまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将江戸幕府旗本

生涯

治承・寿永の乱で活躍した武将岡部忠澄の末裔。岡部氏ははじめ鎌倉公方に、次いで扇谷上杉氏に従ったが、その没落後は後北条氏の重臣である松田氏に仕えた。

父と共に北条氏政氏直の家老であった松田憲秀に仕える。天正18年(1590年小田原征伐の際、憲秀が豊臣軍に内通して小田原城内に囚われると、密かに主の下へと駆けつけた。小田原落城後、結局憲秀は自害を命じられたが、吉正はその介錯を務めた後、高野山へと登った。文禄2年(1593年)憲秀自害の顛末を知りたがった徳川家康に召され、板部岡江雪斎の仲介で肥前国名護屋城へ出頭し、以後は家康に仕えた。家康の関東帰国後は武蔵国都筑郡に200石を賜った。慶長5年(1600年関ヶ原の戦い、慶長19年(1614年大坂冬の陣にも従軍。慶長20年(1615年)大坂夏の陣では真田信繁隊と戦った。寛永10年(1633年)加増されて併せて1500石を領した。正保4年(1647年)に没したが、跡は甥(妹の子)にあたる吉次が継いだ。

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