岡櫟仙院とは? わかりやすく解説

岡櫟仙院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/11 06:34 UTC 版)

岡 櫟仙院(おか れきせんいん、文化12年(1815年) - 明治26年(1893年10月12日[1])は、江戸時代末期の幕府医官明治初期の宮中侍医。名は鳳、通称は良允。号は桐蔭徳川家定晩年の主治医

人物

岡氏は代々幕府に仕えた医家で、祖父にあたる節斎も「櫟仙院」を名乗っている。

幕府医師・小川氏に生まれ、同僚である岡氏の養子となる。天保6年(1835年)、西の丸奥医師となり法眼に叙任。嘉永元年(1848年)、家督を継ぐ。安政4年(1857年)、法印となり櫟仙院と号す。翌安政5年(1858年)7月、将軍家定の脚気の悪化による急変の責任を問われ、奥医師解任、隠居、謹慎。奥詰医師の職にあった子息・良節も連座し、奥詰医師解任、小普請入り、家禄(世襲禄)も100俵を削られる。同じく奥医師であった実兄・小川汶庵も翌月には寄合医師に遷された。万延元年(1860年)9月、謹慎は解除される。

明治に入り浅田宗伯・今村亮らとともに宮中侍医を勤め、嘉仁親王(のちの大正天皇)らの治療にあたったが、明治17年(1884年)6月に退任。名前の類似から混乱が見られるが、明治天皇の侍医・岡玄卿とは別人である。

明治26年(1893年)に没したが、あとを継いだ孫の岡麓(本名・三郎)はアララギ派の著名な歌人である。なお岡氏累代の墓所は駒込高林寺である。

エピソード

  • オランダ船スンビン号(観光丸)試乗問題で栗本鋤雲を陥れたとの説がある。
  • 徳川斉昭一橋派の指図で、将軍徳川家定に毒をもったという嫌疑をかけられたことがある。
  • 若き日の浅田宗伯の訪問を受けた際、門前払いにしたが、後年宗伯に推薦されて宮中侍医になったという。

脚注

  1. ^ 橋本欣也「岡家墓所改葬記(三)」(『掃苔』第6巻第4号、東京名墓顕彰会、1937年4月、p.138。)




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