山本洪輔とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 山本洪輔の意味・解説 

山本洪輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 18:00 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

山本 洪輔(やまもと こうすけ、天保13年(1842年) - 明治32年(1899年)10月16日)は幕末の越前福井藩出身の医者、蘭学者、志士、亀山社中海援隊隊士。洪堂、復輔とも称した。諱は柳、字は子星、号は雪厳。

生涯

福井藩医師の山本宗平の次男に生まれる。兄は玄介(宗隆)、弟は淳良(信卿)、従兄弟に蘭学者男爵となった岩佐純がいた。

万延元(1860)年、岩佐と共に松本良順の門人となる。

医術修行の名目で、大坂京都江戸長崎を遊歴した[1]。その間に坂本龍馬の結成した亀山社中に入ったものと考えられ、慶応2年(1866年)12月20日の、龍馬から伊藤助太夫宛の手紙に名前が出てくるのが最初である。

慶応3年(1867年)4月に改編成された海援隊にも引き続き参加、陸奥宗光高松太郎らと大阪において商事を営み、隊内の医官に長岡謙吉と共に名を連ねる。

同年11月15日に龍馬が暗殺されると、すぐさま長府藩士・熊野直介へと報知、同志の佐柳高次と共に下関に行き、伊藤や三吉慎蔵に伝える。また、いったん三吉慎蔵の屋敷にいた龍馬の妻・お龍を、同志の石田英吉中島信行らと長崎に迎えるのに一役買う。

長崎に帰り、翌慶応4年(1868年)1月には隊で長崎奉行所を占拠する。また、天草富岡代官所の襲撃事件の鎮撫に同志の吉井源馬と向かい、見事に鎮圧する。

戊辰戦争では振遠隊に所属し、朝陽丸に乗り込んで、箱館湾海戦に参加する。明治2年(1869年)4月24日の戦闘で軽傷を負う。その後、同5月11日に朝陽丸蟠竜丸によって轟沈されるが、一命は取り留めた。

その後福井藩に戻るが、明治3年(1870年)4月13日[1]、更に続けて医学修行を行いたい願を藩庁に提出し、受け入れられると同月18日大阪に向かった[1]。浪華軍事病院看頭として出仕するが同8月16日に辞職し、翌9月4日東京や横浜へ向かいたいという願が受け容れられ、出立した[1]

官員録の明治6年(1873年)6月20日の項に「開拓使・八等出仕・山本洪堂」とある通り、開拓使に医官として出仕していた。同年10月1日、北見国宗谷で長男宗一が誕生。

明治8年(1875年)、開拓使を辞して、大阪市西区松島仲之町にいた弟信卿の元に身を寄せる。

明治12年(1879年)に信卿が東区今橋町4丁目に回春病院を設立。

明治14年(1881年)に信卿が没し、洪輔は院長を引き継いだ。

明治19年(1886年)、回春病院附属として、大阪癲狂院を設立(南区逢坂町上之町4953番地)。院長を務める。明治年間初の市立精神病院だった。回春病院は緒方洪庵の次男緒方惟準に譲られた。

明治22年(1889年)、大阪精神病院と改称。

明治27年(1894年)2月に福井市西宝永町(現福井市宝永)に建てられた主君松平春嶽の遺徳碑に寄付を行った。

明治32年(1899年)、10月16日没。息子の宗一が後を継いだ。

大阪精神病院は後に山本病院となり、現在は「八尾こころのホスピタル」として存続している。

脚注

  1. ^ a b c d 「新番格以下増補雑輩」 福井県文書館

参考文献

  • 久寳博編著『山本病院 源流とその歩み』 山本病院、1989年4月



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山本洪輔」の関連用語

山本洪輔のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山本洪輔のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの山本洪輔 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS