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山崎正男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/29 14:01 UTC 版)

山崎 正男(やまざき まさお、1900年明治33年)7月9日[1][2] - 1993年平成5年)2月11日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

京都府出身[1][2][3]。農業・山崎宇之松の三男として生まれ、陸軍中佐・山崎和宏の養子となる[1]。京都第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業[1][2][3]。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる[1][3]。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した[1][2][3]

1929年(昭和4年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(第1課)、陸軍省人事局課員(補任課)、軍務局課員(軍事課)を務め、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に進級[1]。1937年(昭和12年)10月、第10軍参謀に発令され日中戦争に出征[1]。1938年(昭和13年)2月、中支那派遣軍参謀に転じた[1]。同年7月、歩兵中佐に昇進し軍務局課員に発令され帰国[1]。兵務局課員(兵備課)を経て、1940年(昭和15年)11月、兵務局兵備課長に就任し、1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進んだ[1][3]

1941年7月、第39師団参謀長に発令され中国戦線に出征[1][2][3]。1942年(昭和17年)12月、東部軍参謀に発令され帰国[1][2][3]。1945年(昭和20年)3月[注 1]第12方面軍参謀に転じ、同月、陸軍少将に進み同方面軍参謀副長に就任。同年8月[注 2]陸軍予科士官学校幹事となり終戦を迎えた[2][3]。同月、陸軍省付を経て、同年12月、予備役に編入された[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]

著作

  • 『陸軍軍政史梗概』1947年。[1]
  • 編『陸軍士官学校』秋元書房、1969年。

脚注

注釈

  1. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』447頁では1月29日。
  2. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、165頁では9月。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、165頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』758頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』446-447頁。
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。



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