山城国浄瑠璃寺へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
『浄瑠璃寺流記事』によれば、正平4年/貞和5年(1349年)、文観は山城国相楽郡(京都府木津川市等)の浄瑠璃寺西峰五智輪院に隠棲した。ここは山城国(京都府)ではあるものの、南都(奈良県奈良市興福寺)に近い立地の拠点である。文観は浄瑠璃寺に対し、同年4月29日および5月9日に霊宝を寄進している。 なぜ文観が浄瑠璃寺と縁を持っていたのかは、はっきりとしない。建武元年(1334年)に浄瑠璃寺は後醍醐天皇に対し、僧綱を設置することを奏聞しているため(『浄瑠璃寺流記事』)、浄瑠璃寺と建武政権の間に何らかの繋がりがあった可能性はあるものの、詳細は不明である。その他に、13世紀半ばに浄瑠璃寺の仏像を製作した仏師の何人かは、真言律宗の本拠地である西大寺 (奈良市)での像製作にも参加しているため、あるいは西大寺繋がりで浄瑠璃寺に縁を持っていた可能性もある。 なお、浄瑠璃寺はこの数年前の興国4年/康永2年(1343年)に火災にあっているものの、本堂などはまだ残存していた。
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