山内家の有力武将とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 山内家の有力武将の意味・解説 

山内家の有力武将

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 13:58 UTC 版)

長尾景仲」の記事における「山内家の有力武将」の解説

鎌倉長尾氏長尾房景次男として誕生。母は白井長尾氏長尾清景の娘。母方伯父長尾景守の婿養子となって白井長尾氏家督継いだ14歳であった応永8年1401年)、養父死によって上杉氏重臣である白井長尾氏を継ぐ。当時家宰であった長尾氏長尾忠政と共に上杉憲定補佐し以後5代当主仕えることとなる。応永23年1416年の上禅秀の乱では、由比ヶ浜上杉禅秀の軍を破って主君である関東管領上杉憲基鎌倉公方足利持氏鎌倉へと復帰させた。 永享10年1438年)、持氏が憲基の従兄関東管領上杉憲実討伐ようとして永享の乱起こすと、長尾忠政は憲実を上野平井城迎え入れて持氏討伐兵を挙げる。この戦いで景仲も副将格として出陣し、忠政が持氏を捕らえた際にも功績があり、続く結城合戦でも功績挙げた文安元年1444年)、忠政が家宰を退くと子供達連れて出奔した憲実に代わって山内上杉家当主兼ねる事になった実の弟である越後国守護上杉清方上条上杉家)の要請山内上杉家家宰就任した。 ところが、この年に清方は急死し、憲実は隠遁生活からの復帰承諾しなかったために先の永享の乱廃絶した鎌倉公方続いて関東管領空位となって関東政治停滞した。そこで景仲は扇谷上杉家家宰で婿の太田資清道真)と相談して実の長男・竜忠(上杉憲忠)を連れ出して関東管領継承させた。しかし、いとこの佐竹実定家督を継がせようとした憲実はこれを認めなかったため、景仲は憲実・実定を排除して憲忠を擁立することになった

※この「山内家の有力武将」の解説は、「長尾景仲」の解説の一部です。
「山内家の有力武将」を含む「長尾景仲」の記事については、「長尾景仲」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「山内家の有力武将」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山内家の有力武将」の関連用語

1
10% |||||

山内家の有力武将のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山内家の有力武将のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの長尾景仲 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS