山内上杉家の内紛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 00:27 UTC 版)
顕定が戦死すると顕定と共に為景を討つため出陣し上野白井城に駐屯していた上杉憲房は撤退した。関東管領職は顕定の養子である上杉顕実が継承するが、同じく養子である憲房はこれを不服とし横瀬景繁・長尾景長らの支援を受け家督を争う。顕実は実兄の古河公方足利政氏に援助を求めるが、憲房は政氏の子で顕実の甥の足利高基を味方につけ対抗し、古河公方を巻き込み関東は2分された。扇谷上杉家当主・上杉朝良は仲裁に動いたが失敗、相模を伊勢宗瑞に侵略されていく。 永正9年(1512年)、顕実は長尾顕方や成田顕泰らの支援を受けて武蔵鉢形城に拠ったが、横瀬景繁・長尾景長らに攻められて敗北。山内上杉家当主の座を失い兄・政氏を頼って古河城へと逃亡した。 永正12年(1515年)、顕実の死によって終焉。関東管領職も憲房が継ぎ、家宰職も総社長尾家の顕方から足利長尾家の景長に移る事になるが、この内紛で弱体化した山内上杉家は長尾景春の再度の離反を招き、朝良の甥、上杉朝興や相模北条氏の北条氏綱、甲斐武田氏の武田信虎などと争うこととなる。
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