小柏丑二とは? わかりやすく解説

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小柏丑二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/28 14:32 UTC 版)

小柏 丑二(おがしわ ちゅうに[1]1889年明治22年)6月3日[2] - 没年不明)は、東京市区長。教育者。

経歴

石川県金沢市出身[2]旧制第四高等学校を経て、1915年大正4年)に東京帝国大学文科大学国文科を卒業[2]広陵中学校教諭を務めた後、1919年(大正8年)に島根県立杵築中学校教諭となった[2]1922年(大正11年)、福岡高等学校教授に就任[2]1923年(大正12年)、群馬県立沼田中学校校長に転じ、1930年(昭和5年)からは岐阜県岐阜中学校校長を務めた[2]

1934年(昭和9年)、東京市に入り、教育局視学課長、同学務課長を歴任した[2]1939年(昭和14年)から本所区長に転じ[2]東京市本所高等実践女学校の校長事務取扱などを務めた[3]

戦後は公職追放となり[4]、それから新宿区教育委員長を務めた[5]

栄典

位階
勲章等

脚注

  1. ^ 岐阜県職員録 昭和8年5月1日現在. 岐阜県. (1933). p. 69. https://dl.ndl.go.jp/pid/1464140/1/46 
  2. ^ a b c d e f g h 日本官界名鑑 1940, p. コ四.
  3. ^ 学校沿革”. 東京都立本所高等学校. 2019年8月16日閲覧。
  4. ^ 公職追放の該当事項は「武徳会支所長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、270頁。NDLJP:1276156 
  5. ^ 『新宿区史』新宿区、1955年、p.1060。
  6. ^ 官報 1921年6月20日 六九七頁
  7. ^ 官報 1922年1月23日 三九三頁
  8. ^ 官報 1926年4月17日 四三一頁
  9. ^ 官報 1928年10月10日 二五八頁
  10. ^ 官報 1932年5月27日 七〇六頁
  11. ^ 官報 1941年10月31日 六頁

参考文献

  • 日本官界情報社編『日本官界名鑑 昭和十五年版』日本官界情報社、1940年。 



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