宿場としての発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 01:00 UTC 版)
この新宿は、玉川上水の水番所が置かれていた四谷大木戸から西、現在の新宿駅付近までの街道沿いに広がっていた。新宿追分(新宿追分・現在の新宿三丁目交差点付近)からは青梅街道も分岐しており、やがて、品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)と併せて四宿(ししゅく)と呼ばれ、江戸の新たな行楽地としても発展した。 その結果、岡場所(非公認の売春宿)なども繁盛して、「四谷新宿馬の糞の中であやめ咲くとはしほらしい」(馬の糞は活発な馬の往来、あやめは飯盛女・遊女を意味する)と狂歌に詠われている。これらが災いし、1718年(享保3年)に風紀上の理由から一時廃駅の憂い目にあうも、1772年(明和9年)には復活している(明和の立ち返り)。歓楽街としての新宿の原型は、この時代に既にあったといえるだろう。 このころ太宗寺は、江戸六地蔵のひとつに数えられ、庶民の信仰を集めていた。また、成覚寺は遊女などの投げ込み寺であった。
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