宮川音五郎
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宮川 音五郎(みやかわ おとごろう、天保元年(1830年) - 明治4年5月25日(1871年7月12日))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての人物。新選組局長の近藤勇の実兄。音次郎、乙五郎とも。後に源治郎(6代目)。諱は光信。天然理心流門人。
生涯
天保元年(1830年)、農民・宮川久次郎の長男として誕生。
嘉永元年(1848年)、弟である粂次郎、勝五郎(後の勇)と共に、天然理心流3代目近藤周助に入門し剣術を学ぶ。弟・勇が天然理心流を継ぎ、文久3年(1863年)に浪士組として上洛すると、留守となった試衛館や家族の面倒を任された。その後、戊辰戦争の最中に勇が処刑されると、息子・勇五郎らと図って板橋刑場に赴き、泣く泣く勇の遺体を掘り出して持ち帰り、宮川家菩提寺である龍源寺に埋葬したという(この話を創作とする説もある)。
家族・子孫
系譜
- 実父:宮川久次郎
- 実母:宮川みよ
子孫
宮川半助
孫の1人[1]。武蔵国連光寺村向ノ岡(現:東京都多摩市連光寺)一帯の地主であり、『国民新聞』にて、広告主の名義を借りて、明治天皇聖蹟の一つとされた「連光寺村御猟場」跡地約3万坪の売地広告を掲載[2]。経済的な困窮からの売却だったものの、聖蹟保存運動の話を聞いたことで、連光寺における保存運動を担っていた「御遺蹟保存会」に土地の半分を寄付・売却する[2]。この判断は、宮川家としての「かつて勤皇の志士を斬った罪亡ぼし」と考察され[2]、この跡地が記念館建設計画に進行すると、保存運動を進めてきた田中光顕・富澤政賢や京王電気軌道(現:京王電鉄)創業者の井上篤太郎らと共に建設委員会を結成した[3]。
脚注
- ^ 旧多摩聖蹟記念館の常設展示資料による。
- ^ a b c 山内直樹「多摩の『聖地』をつくると『墓地』めぐり」、"2003年9月20日彼岸前の遠足「多摩の『聖地』と『墓地』めぐり」"、文化資源学会、2020年8月26日閲覧。
- ^ “東京多摩市の旧多摩聖蹟記念館(建築家・関根要太郎作品再見)”. 関根要太郎研究室@はこだて. 2020年8月27日閲覧。
固有名詞の分類
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