守護代として台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 17:37 UTC 版)
美濃の斎藤氏は、越前斎藤氏の庶流・河合系斎藤の赤塚氏が美濃目代として越前から移り住んだのに始まるといわれる。家紋は撫子(斎藤道三は二頭波頭立波を用いた)。 室町時代に美濃守護土岐氏に仕え、文安元年(1444年)閏6月に、斎藤宗円が京都の土岐屋形で富島氏を誅殺し守護代となって勢力を揮った。宗円の子・斎藤妙椿は兄・利永の死後、甥の守護代利藤を後見し、後に室町幕府奉公衆となって足利氏に直接仕え守護・土岐成頼の官位をも上回り、応仁元年(1467年)の応仁の乱では西軍の主力として各地を転戦した。しかし、妙椿の跡(持是院家)を継いだ斎藤妙純(利国)は土岐成頼を巻き込んで利藤と守護代の座を争い、内紛をおこした。妙純は、明応4年(1495年)からの船田合戦に勝利したが、翌年近江に出兵し戦死した。このため、同族争いが再燃し斎藤家の勢力は徐々に衰えを見せ、庶流の長井氏が台頭した。なお、妙純の娘は越前の朝倉貞景に嫁ぎ、姻戚関係となっている。また、利藤の末子・日運は京都の妙覚寺に入り、後に美濃常在寺4世となった。
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