学究・エコノミストとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 01:50 UTC 版)
「添田壽一」の記事における「学究・エコノミストとして」の解説
添田は現役の大蔵官僚としての生活の傍ら、東京帝国大学、東京専門学校(現・早稲田大学)、専修学校(現・専修大学)、学習院などで経済学を講じており(恩師・上司であった田尻稲次郎が設立した専修学校では、同僚・同期の阪谷芳郎とともに出講し商業史などを担当)、1889年には、山田顕義・宮崎道三郎・金子堅太郎らと共に日本法律学校(現・日本大学)の創立に参加している。同時にまた雑誌で経済問題を論じるなど、経済学の啓蒙普及活動に務め、当時においては単なる官僚でなくエコノミストとして一般に知られる存在であった。1890年、英で雑誌『エコノミック・ジャーナル』が創刊されると日本通信員を委嘱され、日本の経済学の現状に関するレポートなどを寄稿している。
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