子息と孫のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/06 01:35 UTC 版)
有次の子息は、本庄氏ではなく、庄氏の方を名乗っており(系図上では)、再び庄氏一族として西日本で活動した。その子息である庄資房(左衛門四郎)は、系図によれば、片山村、幸山城・高山城を領したとある(その後、越後守仲時の一門と共に忠死したとある)。資房には2人の子息がおり、七郎資氏は高山城主となり、弟の資政(左衛門)は兄資氏の養子になったと系図には載っている。資政は猿掛城の城主になったとあり、庄家長から数えて(時次を有次の弟と考えた場合、家長・家次・朝次・有次・資房?)、6代城主、あるいは7代城主と考えられる。系図には、資政は文和2年(1353年)、北畠准后権大納言顕能に従い、足利尊氏の執事、高武蔵守師直と合戦を行い、軍功を挙げ、感状を賜ったとある。 南北朝時代、備中庄氏が南朝に属して戦っていたことが分かる。
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