大黒屋庄六とは? わかりやすく解説

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大黒屋庄六

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/08 05:20 UTC 版)

大黒屋 庄六[注釈 1](だいこくや しょうろく、享保12年(1727年) - 寛政2年7月4日1790年8月14日[注釈 2][4])は、江戸時代中期の吉原町人、狂歌師。片岡氏。俳名を秀民、狂名を俵小槌と称した[1][2][4][5]

生涯

尾張国知多郡坂井村の人。宝暦明和年間には同地に由縁を持ち吉原に進出している「大黒屋」の屋号が散見されており、吉原と関係の強い一族だったものと考えられる[6]。大黒屋庄六は明和6年(1769年)に吉原角町に商家として出店し、安永5年(1776年)からは妓楼「甲子楼」を経営した[6][7]

安永8年(1779年)吉原仲之町で初めて検番[注釈 3]を開業した。当時、遊女屋に所属しない芸者は、揚げ代を全て自らの収入にしていたため、店抱えの芸者衆より不公平の感があった。また密かに遊女営業を行うため風紀の乱れるところがあったため、それらの是正を目的としていた。さらに、その収益より廓内の道路や下水の整備、日本堤の補修、火消の設置などを手掛けた[1][2][7]

庄六は十八大通に数えられる通人として知られ、天明狂歌が流行すると吉原連に属して俵小槌の狂名を用いた[1][8][9]。また安永9年(1780年)初演の浄瑠璃『碁太平記白石噺』に主人公姉妹を助ける遊女屋「大福屋惣六」が登場するが、これは庄六がモデルである[1][9]

寛政2年(1790年)64歳で没[注釈 2]。法号は本空桂翁庵主、浅草の広徳寺に葬られた[4][7][10]

脚注

注釈

  1. ^ 名は「正六」とも書く[1][2]
  2. ^ a b 常滑市坂井天王の東光寺の過去帳は、没年を享和2年(1802年3月とする[3]
  3. ^ 遊廓内の芸者の取締業。吉原遊廓内の全芸者の人別帳を作成し、客への取次・勘定などの一切を管理した[7]

出典

  1. ^ a b c d e 宇田 1994.
  2. ^ a b c 『日本人名大辞典』, § 大黒屋庄六.
  3. ^ 日比谷 2021, pp. 73–74.
  4. ^ a b c 下中 1979, §俵小槌.
  5. ^ 『浄瑠璃集』, p. 587.
  6. ^ a b 日比谷 2021, pp. 72–73.
  7. ^ a b c d 西山 1967, p. 30.
  8. ^ 西山 1967, p. 244.
  9. ^ a b 『浄瑠璃集』, p. 545.
  10. ^ 日比谷 2021, p. 73.

参考文献




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