大黒屋庄六
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大黒屋 庄六[注釈 1](だいこくや しょうろく、享保12年(1727年) - 寛政2年7月4日(1790年8月14日)[注釈 2][4])は、江戸時代中期の吉原の町人、狂歌師。片岡氏。俳名を秀民、狂名を俵小槌と称した[1][2][4][5]。
生涯
尾張国知多郡坂井村の人。宝暦・明和年間には同地に由縁を持ち吉原に進出している「大黒屋」の屋号が散見されており、吉原と関係の強い一族だったものと考えられる[6]。大黒屋庄六は明和6年(1769年)に吉原角町に商家として出店し、安永5年(1776年)からは妓楼「甲子楼」を経営した[6][7]。
安永8年(1779年)吉原仲之町で初めて検番[注釈 3]を開業した。当時、遊女屋に所属しない芸者は、揚げ代を全て自らの収入にしていたため、店抱えの芸者衆より不公平の感があった。また密かに遊女営業を行うため風紀の乱れるところがあったため、それらの是正を目的としていた。さらに、その収益より廓内の道路や下水の整備、日本堤の補修、火消の設置などを手掛けた[1][2][7]。
庄六は十八大通に数えられる通人として知られ、天明狂歌が流行すると吉原連に属して俵小槌の狂名を用いた[1][8][9]。また安永9年(1780年)初演の浄瑠璃『碁太平記白石噺』に主人公姉妹を助ける遊女屋「大福屋惣六」が登場するが、これは庄六がモデルである[1][9]。
寛政2年(1790年)64歳で没[注釈 2]。法号は本空桂翁庵主、浅草の広徳寺に葬られた[4][7][10]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 日比谷孟俊「新吉原に見番制度を作った知多の大黒屋庄六と「碁太平記白石噺」」『郷土文化会誌 みなみ』 111巻、愛知県南知多町郷土研究会、2021年。
- 宇田敏彦 著「大黒屋庄六」、朝日新聞社 編『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版、1994年。ISBN 978-4-02-340052-8。
- 下中邦彦 編『日本人名大事典』平凡社、1979年。 ISBN 978-4-582-12200-8。
- 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編『日本人名大辞典』講談社、2001年。 ISBN 978-4-06-210800-3。
- 西山松之助 編『遊女』東京堂出版〈日本史小百科〉、1994年。 ISBN 978-4-490-20230-4。
- 『浄瑠璃集』鳥越文蔵;長友千代治;大橋正叔;黒石陽子;林久美子;井上勝志(校注・訳)、小学館〈日本古典文学全集〉、2002年。 ISBN 978-4-09-658077-6。
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