大崎平野の建郡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)
「日本の古代東北経営」の記事における「大崎平野の建郡」の解説
奥羽脊梁山脈の東の陸奥国側では、庄内平野の蝦夷反乱の際に一時的に政情不安の状態に陥っていたようだが、その後は比較的平穏な状態が続いていた。 『続日本紀』慶雲4年5月26日(707年6月30日)条の記述によると、7世紀中頃の白村江の戦いで唐軍の捕虜となり、40年あまりを唐土ですごしたのち、解放されて帰朝した3人の中に陸奥国信太郡出身の壬生五百足という人物がいたことが知られている。一般的に景雲4年より以前に信太郡が成立していた証左とされ、8世紀初頭には大崎平野でも律令国家による建郡の動きがあったことがうかがえる。しかし庄内平野とは異なり、大崎平野では建郡によって蝦夷反乱が引き起こされることはなかった。
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