大学・社会人野球時代
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1950年に早稲田大学教育学部に入学し、東京六大学野球リーグでは在学中4度の優勝を経験。1950年秋季リーグから同期の広岡達朗、小森光生とともにベンチ入り。1年下の石井連蔵らとともに投手陣の中軸として活躍し、1953年春季リーグでは防御率0.00を記録した。リーグ通算33試合登板、12勝7敗。 1954年、八幡製鉄(現在の新日鉄住金八幡)に入社。同年の都市対抗にエースとして出場。先発として3勝を挙げ決勝に進出する。全藤倉との決勝では西村一孔と投げ合うが、1回に2失点を喫しマウンドを降りる。しかしその後に逆転勝利、17年振り2度目の黒獅子旗を獲得した。翌1955年の都市対抗にも連続出場。準々決勝に進み日本石油の野村利則との投手戦となるが、0-1で敗退し連覇はならなかった。
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