堀・縄手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:18 UTC 版)
大通院谷(だいつういんだに) 郡山城の西にある大通院谷川には、旧石器時代から近代までの複合遺跡として大通院谷遺跡があり、高宮郡衙関連遺跡と共に元就・輝元時代に作られたと思われる薬研堀や屋敷跡などが発見されている。薬研堀は、谷から南西に向けてに作られた内堀の起点となり、郡山南麓を回り込んで掘られていた。 内堀 大通院谷から南麓を取り巻いて、旧本城のあった東の尾根まで内堀が続いていた。現在の安芸高田少年自然の家前から県立吉田高等学校・市立吉田小学校の方向に堀があったと推定される。これらの堀の内側は、吉田郡山城を守備する里衆の居住区である。 外堀 吉田盆地を流れる可愛川と多治比川が、天然の外堀的な役割を果たしていた。 縄手 内堀の外側には道路(縄手)が整備されていた。城内の大手筋を下って祇園社(清神社)付近から南西方向に抜ける「祇園縄手」・大通院谷を下った方向から続く「香取縄手」などの山麓から里に向かって延びる7本の縄手と、これらの縄手を横に繋ぐ「竪縄手」がある。
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