国木田収二
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国木田 収二(くにきだ しゅうじ、1878年〈明治11年〉9月1日 - 1931年〈昭和6年〉3月4日)は、明治から大正にかけての新聞記者、ジャーナリスト[1]。号は北斗(ほくと)[1]。
生涯
1878年9月1日、広島県に生まれた[1]。東京専門学校を卒業した後に國民新聞社に入り、兄の独歩とともに徳富蘇峰門下の逸材と称された[1]。蘇峰は、独歩よりも収二の方が大成すると期待していたといわれる[3]。
日清戦争で独歩が従軍記者として現地に派遣された際に、収二宛の手紙を模して戦況報告を送った『愛弟通信』は、兄弟愛の美談として喧伝された[1]。
1899年(明治32年)に南洋諸島へ視察旅行をした[1]。その後、神戸新聞社に主筆兼編集部長として入社した[1]。それから十数年後には読売新聞社の主筆を担当した[1]。
晩年は新聞界からは退いて川崎造船所秘書課を勤め、1931年3月4日に死去した[1]。享年54[2]。
ゆかりの建物
収ニが独歩とともに下宿していた坂本永年邸は、改修されて城下町佐伯国木田独歩館として公開されている[4]。
脚注
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