国分三亥とは? わかりやすく解説

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国分三亥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/09 13:23 UTC 版)

国分三亥

国分 三亥(こくぶ さんがい、文久3年12月25日[1]1864年2月2日) - 昭和37年(1962年5月1日[2])は、日本の検事朝鮮総督府官僚錦鶏間祗候宮中顧問官教育者

経歴

備中松山藩士の国分胤之(魚水実録を編纂)の子として生まれる。1883年明治16年)に司法省法学校に入学し、1885年(明治18年)に卒業した[3]。検事補となり、1887年(明治20年)に判事検事登用試験に合格[1]岡山地方裁判所検事、横浜地方裁判所検事、甲府地方裁判所検事正、高知地方裁判所検事正、大阪控訴院検事、大阪地方裁判所検事正を歴任した[1]1908年(明治41年)に韓国に渡り、韓国検事総長、統監府裁判所高等法院検事長に就任した[1]韓国併合後は、朝鮮総督府裁判所高等法院検事長、朝鮮総督府司法部長官、朝鮮総督府法務局長を務めた[3]

1920年大正9年)に退官後は錦鶏間祗候となり、1922年(大正11年)からは久邇宮宮務監督を務めた[3]1925年(大正14年)より宮中顧問官となったが[4]、辞して1932年(昭和7年)9月27日に再び錦鶏間祗候となった[3][5]

その他、二松學舍常任理事・理事長(1932年-1948年)、逗子開成中学校理事長、横浜倉庫株式会社社長、東華生命保険株式会社監査役などを務めた[3][6]

1961年1月、岡山県高梁市の名誉市民。1962年、98歳で亡くなる。

栄典

脚注

  1. ^ a b c d 人事興信録 第5版 1918.
  2. ^ 『昭和物故人名録』 日外アソシエーツ、1983年。
  3. ^ a b c d e 人事興信録 第10版 1934.
  4. ^ 『官報』第3878号、大正14年7月27日。
  5. ^ 『官報』第1725号、昭和7年9月28日。
  6. ^ 大衆人事録 1930.
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。 
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第10版(上)』人事興信所、1934年。 



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