唐生智討伐、失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:13 UTC 版)
同年4月の上海クーデター(四・一二政変)では、程潜は蒋介石の反共路線を支持し、第1集団軍第2軍総指揮に任ぜられた。同年10月、程は西征軍第4路総指揮に任命され、李宗仁の新広西派と協力して、反蒋クーデターを起こした湖南軍の唐生智を討伐している。11月、武漢を攻略した程は湘鄂臨時政務委員会主席に任命され、翌1928年(民国17年)2月、唐を撃破して長沙を占領した。 ところが同年5月、中央政治会議武漢分会主席となっていた李宗仁により、程潜は湖南の省政を壟断した等の罪に問われて各職から罷免された上に拘禁されてしまった。程が李の指導に従わず、税収の上納も拒否したことが原因とされる。半年後に程は釈放されたが復権はできず、上海に寓居することになった。1931年(民国20年)12月国民政府委員、国民党中央執行委員として復帰し、1935年(民国24年)12月には参謀総長と中央政治委員会委員に任ぜられた。翌年1月、二級陸軍上将の位を授与されている。
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