同僚に粛清される
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/31 05:07 UTC 版)
1925年(民国14年)8月、姜は南下し、蘇皖剿匪司令、安徽軍務督弁に任じられた。しかし、姜は直隷派の孫伝芳の攻撃を受けて、安徽から撤退する。姜は山東省の張宗昌と連合し、孫に反撃したが、逆に大敗した。その後、奉軍第4方面軍軍団長に任命されている。 同年11月22日、郭松齢が張作霖に対して兵変を起こす。奉天省へ戻る途中の姜登選は、灤県を単身で訪問し、郭との面談を求めた。しかし姜は、その場で郭により拘束されてしまう。郭は、姜に兵変に加わるよう勧めたが、姜は大喝してこれを拒絶する。そのため郭は、姜を26日に銃殺刑に処した。享年46。 姜登選の人柄は、剛毅果敢、誠実、清廉にして、栄達・利益を求めないものであり、また、その軍紀も厳正であった。そのため、郷里の人々に、優れた印象を与えていたという。
※この「同僚に粛清される」の解説は、「姜登選」の解説の一部です。
「同僚に粛清される」を含む「姜登選」の記事については、「姜登選」の概要を参照ください。
- 同僚に粛清されるのページへのリンク