吉田貫三郎とは? わかりやすく解説

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吉田貫三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 16:29 UTC 版)

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吉田 貫三郎(よしだ・かんざぶろう、1909年 - 1945年)は、昭和時代前期の挿絵画家。本名は貫一。

生涯

兵庫県明石市出身。1928年(昭和3年)に神戸商業学校を卒業し一時は電気会社の会計などをしていたが、在学中から凝っていた漫画の投稿に力を入れ、漫画雑誌『月刊マンガ・マン』で入選したのをきっかけに1929年(昭和4年)に上京し、同誌の版元である東京漫画新聞社に入社する[1]。1932年(昭和7年)から横山隆一近藤日出造、矢崎茂四を中心とする新漫画派集団に加わり、当初は漫画家として活動していた。1933年(昭和8年)頃より『新青年』などで小説の挿絵を描くようになり、怪奇推理小説から現代小説、時代小説まで幅ひろく手がけたが、1945年(昭和20年)に中国の広東で戦病死。37歳。

画風・評価

文芸評論家の磯貝勝太郎には「明朗で健全そのものの画風を特徴とした。黒白芸術をよく理解し、駆使しうる代表として定評があった」と[2]。漫画から挿絵へと活動場所を変えても満足できず、1941年(昭和16年)頃から本画を志し、春陽会展にも出品している。

挿絵作品

装幀

  • 海野十三「深夜の市長」(1936年、春秋社)
  • 小栗蟲太郎「紅殻駱駝の秘密」(1936年、春秋社)
  • 徳永直「甚左どんの草とり」(1943年、国華堂日童社)
  • 夢野久作「近世快人伝」

著作

  • 随筆集『蟹の爪』(1943年、地平社)

脚注

  1. ^ 尾崎秀樹『さしえの50年』平凡社、1987年、98p。
  2. ^ 日本近代文学館・編『日本近代文学大事典 第3巻』講談社、1977年、227p。
  3. ^ 大阪圭吉『死の快走船』東京創元社、2020年、160,161,166,167,174,175p 所収。


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