右翼3トゥメンの討伐(1508年〜1509年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 04:11 UTC 版)
「ダヤン・ハーン」の記事における「右翼3トゥメンの討伐(1508年〜1509年)」の解説
各種モンゴル年代記でダヤン・ハーン最大の事業として記されるのが右翼3トゥメン(トゥメト、オルドス、ヨンシエブ)の平定である。この戦役ではモンゴルが2つの勢力に分断され、ダヤン・ハーンに忠実な左翼3トゥメンとダヤン・ハーンに反抗的な右翼3トゥメンとの戦いという形になり、『アルタン・ハーン伝』はこれを「2つの大ウルス(左翼3トゥメンと右翼3トゥメン)の不和」と表現している。 オルドス、トゥメト、ヨンシエブの3部はそれぞれマンドゥールン・ハーンの時代のボルフ・ジノンの勢力、トゥルゲンの勢力、ベグ・アルスランの勢力の後身であり、ダヤン・ハーンの治世にはトゥメト部をホサイ・タブナンが、オルドス部をマンドライ・アカラクが、ヨンシエブ部をイブラヒム・タイシがそれぞれ治めていた。これら3名は形式上はダヤン・ハーンの統治下にありながらその強大な軍事力でもってしばしばダヤン・ハーンに反抗的な態度を取っていた。 モンゴル年代記によると、ある時ダヤン・ハーンが自らの次男ウルス・ボラトに「ジノン」の称号を与え、右翼3トゥメンを統轄させようとした所、これに反発したオルドス部首長マンドライとヨンシエブ部首長イブラヒムがウルス・ボラトを殺したことが右翼3トゥメンの叛乱の切っ掛けになったという。
※この「右翼3トゥメンの討伐(1508年〜1509年)」の解説は、「ダヤン・ハーン」の解説の一部です。
「右翼3トゥメンの討伐(1508年〜1509年)」を含む「ダヤン・ハーン」の記事については、「ダヤン・ハーン」の概要を参照ください。
- 右翼3トゥメンの討伐のページへのリンク