古田武彦との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/08 03:47 UTC 版)
真書説を採る古田武彦は、当初『東日流外三郡誌』をうさんくさいものとして相手にしていなかった。しかし、古田は和田との会見の際、自らの主張する「邪馬壹国説」「九州王朝説」の傍証とも読める記述を和田家文書に見出したのがきっかけで『東日流外三郡誌』に傾倒するようになり、ついには『東日流外三郡誌』を根拠とする東北王朝説を提唱するにいたった。 ただし和田喜八郎が写本のみを公開し、原本を公開しなかったため、『東日流外三郡誌』真作説について、「現段階では仮説に過ぎない」とは断っていた。それでも和田喜八郎が原本を公開しないために挙げた理由を鵜呑みにして、むしろ和田喜八郎を非難する側に問題があるかのような主張を行っていた。 古田武彦は和田喜八郎の死去に際して「古田史学会報」(1999年10月11日 No.34)において「和田喜八郎氏に捧ぐ」を掲載している。 2007年、古田武彦は和田喜八郎の遺品の中から東日流外三郡誌の「寛政原本」を発見したとして、これを公開した。しかし公開されたその文書は、以前発表された「和田喜八郎の祖父である末吉による写本」と筆跡が一致していたとされる。この発見については、古代史専門誌「邪馬台国」が批判した以外、学会や一般マスコミで取り上げられることは全くなかった。
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