厳敏永
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/24 21:34 UTC 版)
厳 敏永(オム・ミニョン、朝鮮語: 엄민영/嚴敏永、1915年2月4日 - 1969年12月10日[1])は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の政治家、官僚、弁護士。本貫は寧越厳氏[2]。漢字表記は厳敏英とも[3]。日本名は雉山 敏夫(きじやま としお)。
生涯
慶尚北道慶山郡[3]または善山郡にて誕生[4]。大邱公立高等普通学校(のちの慶北高等学校)を経て、1936年法政大学予科修了。1939年九州帝国大学法文学部法科卒業[5]。米国ノースウェスタン大学法科大学院修了[3]。高等文官試験行政科に合格して朝鮮総督府の官吏となり、京城地方専売局清州出張所で勤務した。1943年以後、全羅北道任実郡と茂朱郡の郡守を務めた[4]。
太平洋戦争(大東亜戦争)終戦後は、全羅北道農商部長と全羅南道農林局長を務めた。その後は教育職に転向し、大邱大学校教授とソウル大学校法科大学教授を務めた。1957年に慶煕大学校法学部の学部長に就任[4]。
1960年の四月革命により第一共和国が崩壊した後は、民主党所属で参議院議員に当選。1961年に5・16軍事クーデターが発生すると、金度演が主導した自由民主党に合流。だが自由民主党の旧民主党系で内紛が発生し、蘇宣奎と衝突。厳敏永は自分の会派を率いて民主共和党へ移動[6]。朴正煕は厳敏永を国家再建最高会議議長顧問に起用した。第三共和国にて内務部長官を2度務め、1967年より駐日大使に着任。在任中の1969年12月10日に54歳で逝去した[4]。
脚注
- ^ “嚴敏永 주일대사 별세. 16일 외무부장 거행”. 朝鮮日報. (1969年12月11日). p. p.1
- ^ “(69)영월 엄씨(寧越嚴氏)-124,697명” (朝鮮語). 서울이코노미뉴스 (2014年9月12日). 2022年8月16日閲覧。
- ^ a b c “대한민국헌정회”. rokps.or.kr. 2021年9月12日閲覧。
- ^ a b c d “엄민영(嚴敏永)”. 韓国民族文化大百科事典. 2023年8月14日閲覧。
- ^ 永島広紀 「帝国」の大学に学んだ朝鮮人学生韓国研究センター年報22巻
- ^ “공화당에 嚴敏永씨계 합류선언. 자민당 완전히 두조각”. 朝鮮日報. (1963年7月31日). p. p.2
参考資料
公職 | ||
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先代 李啓純 楊燦宇 | 大韓民国内務部長官 第28代:1963 - 1964 第30代:1966 - 1967 | 次代 楊燦宇 李澔 |
外交職 | ||
先代 金東祚 | 駐日大韓民国大使 第2代:1967 - 1969 | 次代 李厚洛 |
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