博士弟子と射策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:46 UTC 版)
当初は、太常が毎年18歳以上で優秀な人物を50名選出し、太守と諸侯相も追加で任意に担当地域の優秀な者を推薦して、太学で五経博士に指導させた。この時集められた人材を博士弟子、または博士弟子員といい、賦役が免除された。博士弟子は1年後に射策という試験を課され、甲科の合格者、すなわち、優秀な成績を収めたグループは、比三百石の郎中となった。乙科や丙科の場合は郎官になれず、太子舎人になったり太常の属官である百石の文学掌故となって、郡の属吏として派遣された。ただし、博士弟子は漢代を通じて増え続け、後漢後期の桓帝の時代には3万人に達していたのに対して、射策甲科による郎官の就任者は前漢末を最後に消滅し、後漢では郎選としては機能しなくなっていた。
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