北川ゴルゴロとは? わかりやすく解説

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北川ゴルゴロ

(北川五郎 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/16 05:05 UTC 版)

北川 ゴルゴロ(きたがわ ゴルゴロ、日本語名:北川五郎ウィルタ語名;Daxinnieni Gorgolo(ダーヒンニェニ・ゴルグル)、1899年明治32年)頃 - 1978年昭和53年)6月26日[1])は、日本におけるウィルタ(オロッコ)民族最後のシャーマン、文化伝承者[2]

生涯

樺太のルクタマに生まれ[3]、狩猟・遊牧を営んでいた。日露戦争後の南樺太の日本領化に伴い、ウィルタは保護区に定着させられる[1][3]。1920年代後半以降は、少数民族の居留地であった敷香町の「オタスの杜」でウィルタ族の総代をつとめた[2][注釈 1]

第二次世界大戦後、1958年(昭和33年)に北海道網走市へと移住[1][3][2]。移住後は、ウィルタ語や民族文化の紹介や保存・継承に尽力した[2]

ウィルタ文化継承の功績が認められ、1975年(昭和50年)、北海道文化財保護功労者として表彰された[5]

網走市の観光イベント「オロチョンの火祭り」に1959年から1974年までシャーマンとして出演したが[1]、ウィルタのシャーマンの儀式は本来、火祭りとは無関係であるとしていた[6]

受賞歴

  • 1975年(昭和50年) - 北海道文化財保護功労賞(北海道文化財保護協会)
  • 1976年(昭和51年) - 叙勲 木杯[7]

脚注

注釈

  1. ^ 「オタスの杜」は、樺太庁管轄下のアイヌ以外の先住民を集住させる村落として1926年以降、敷香郡敷香町に造成された[4]。ただし、当時約400名といわれるウィルタやニヴフのうち、オタスに暮らしたのは半数以下とみられている[4]

出典

  1. ^ a b c d 週刊新潮『昭和の墓碑銘』新潮社、2006年、96-99頁。ISBN 9784106101557 
  2. ^ a b c d ダーヒンニェニ・ゴルグル』 - コトバンク
  3. ^ a b c 『朝日新聞』1978年6月26日付夕刊、11面
  4. ^ a b 天野(2017)pp.30-32
  5. ^ 永遠のジャッカ・ドフニ」(PDF)『北方民族博物館だより』第108巻、北海道立北方民族博物館、2018年3月、4頁。 
  6. ^ 『毎日新聞』1978年6月27日付、23面
  7. ^ 『官報』14949号(1976年11月5日)

参考文献

  • 天野尚樹 著「序章 樺太の地理と人びと」、原暉之・天野尚樹 編『樺太四〇年の歴史―四〇万人の故郷』一般社団法人 全国樺太連盟、2017年3月。 ISBN 978-4-9909527-0-9 

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