劉琨
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劉 琨(りゅう こん、泰始7年(271年) - 大興元年5月8日[1](318年6月22日))は、中国西晋時代から五胡十六国時代にかけての武将・政治家。字は越石。中山郡魏昌県(現在の河北省定州市南東部)の出身。漢の中山靖王劉勝の末裔であると言われる。八王の乱に際しては司馬顒討伐に大きく貢献し、永嘉の乱が起こると拓跋部と結んで漢(後の前趙)の襲来を阻んだ。文学者としても著名であった。
- ^ 『晋書』巻6, 元帝紀 太興元年五月癸丑条による。
- ^ 「将軍は河北で立身し、兗州・豫州を席巻すると、長江・淮河・漢水・沔水の間を縦横無尽に駆け巡った。古来の名将と言えども、比較できる者はいないであろう。にもかかわらず、城を落としても民衆を得られず、地を攻略しても占有出来ず、軍をまとめてもすぐに散亡してしまっている。将軍にはこれが何故だかお分かりか。存亡を決するのは、正しい主君を得るかどうかにあり、勝敗を決するのは、どの勢力に付くかによる。主を得れば則ち義兵となり、逆に付けば則ち賊衆となる。義兵は敗れたとしても、功業は必ずや成し遂げるだろう。賊衆は勝ちを得たとしても、最後には必ずや殲滅される。その昔、赤眉軍や黄巾党は天下を横行したが、わずかな間に敗れ去った。その理由は、正に大義名分無き挙兵であったためであり、故に禍乱となったのである。将軍が天挺の質(天より選ばれた才質)をもって領内にその威を振るい、徳が有る者を見定めて推し崇め、時望に従ってこれに帰順すれば、その勲功・大義たるや堂々たるものとなり、長きに渡って栄光を手に出来よう。劉聡に背いて禍を除き、正しい主君に従えば福が至るであろう。もし将軍がこれまでの過ちを受け入れ、方針を改めるならば、天下を平定するのに、逆賊を掃討するのに足りない事があろうか。今、侍中・持節・車騎大将軍・領護匈奴中郎将・襄城郡公を将軍に授けよう。将軍は内外の職務を統率し、華戎(漢人と胡人)の封号を兼ね備え、大郡を治めてその地位を明らかにするのだ。これを持って将軍の特殊な才能を顕彰する。これらを受ける事は、あらゆる民の望みに従う事である。古えより、確かに戎人(胡人)から帝王に登った者は無いが、名臣として功業を建てた者は存在している。今、天下は大乱しており、雄才大略を持った人物が待ち望まれている。将軍は攻城野戦においては神機妙算であり、兵書を見ていないにもかかわらず孫武・呉起に匹敵している。生まれながらにして知る者は最も優れており、学んで知る者はその次である。精鋭騎兵5千と将軍の才があれば、打ち破れないものなど何もない。全ての誠心と事実はこの書にある」
- ^ 『晋書』では人質を送ったのは前年の出来事とされている。
- ^ 「握中有懸璧,本是荊山球。惟彼太公望,昔是渭濱叟。鄧生何感激,千里來相求。白登幸曲逆,鴻門賴留侯。重耳憑五賢,小白相射鉤。能隆二伯主,安問黨與仇!中夜撫枕歎,想與數子遊。吾衰久矣夫,何其不夢周?誰云聖達節,知命故無憂。宣尼悲獲麟,西狩泣孔丘。功業未及建,夕陽忽西流。時哉不我與,去矣如雲浮。朱實隕勁風,繁英落素秋。狹路傾華蓋,駭駟摧雙輈。何意百煉剛,化為繞指柔。」
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