剛の座とは? わかりやすく解説

剛の座

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/21 01:51 UTC 版)

藤原季方」の記事における「剛の座」の解説

河内源氏源頼義郎党藤原季俊の子として誕生。父・季俊は前九年の役の際に安倍貞任重任藤原経清の首を京に送った。 季方は頼義の三男・義光に仕えるが、後には滝口武者にもなった。後三年の役の際には主人・義光と共に清原武衡・家衡と闘う義光の兄・義家援軍として陸奥国赴く寛治元年1087年)、義家と共に金沢柵で武衡・家衡と戦った際、義家発案で剛の座・臆の座(剛臆の座)が設けられるが、季方は常に活躍し、剛の座にすわりつづけた奥州後三年記)。その戦いの際、武衡が降伏しようとして義光に連絡入れてきた。そして義光自ら金沢柵内に交渉し入ろうとしたが義家止められ代わりに郎党である季方が使者として柵に入ることとなった。しかし、義家和睦拒否して戦い継続し金沢柵陥落。武衡・家衡は脱出失敗して捕縛され斬首された。 その後、季方は主人である義光の兄・義綱の三男源義明乳母夫となる。

※この「剛の座」の解説は、「藤原季方」の解説の一部です。
「剛の座」を含む「藤原季方」の記事については、「藤原季方」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「剛の座」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「剛の座」の関連用語

剛の座のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



剛の座のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの藤原季方 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS