分立する諸国とゴルカの台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/04 17:20 UTC 版)
「ネパールの統一」の記事における「分立する諸国とゴルカの台頭」の解説
かつてネパールは数多くの国が分立していた。カトマンズ盆地では、ヤクシャ・マッラの死後、三都マッラ朝(カトマンズ、バクタプル、パタン)が互いに覇権を争っていた。また、カルナリ地方には二二諸国が、ガンダキ地方には二四諸国がそれぞれ分立していた。 そうしたなか、1559年にガンダキ地方にゴルカ王国(ゴルカ朝)が成立した。だが、その勢力は小さく、ゴルカは二四諸国にも数えられないほどの小国であった。 とはいえ、ゴルカは着実に力を蓄えていった。ゴルカは三都の争いではパタンに味方し、盆地への介入を続けた。第8代ゴルカ王プリトビパティ・シャハの代には従来のパタン友好策を変え、ときにはパタンを孤立させ、またあるときにはカトマンズを孤立させた。次のナラ・ブーパール・シャハの代にも三都に権謀戦術を用い、ヌワコート奪取を試みたが三都の反撃にあって失敗した。
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