分県運動と失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 05:07 UTC 版)
上記のとおり若松県は1876年をもって福島県の一部となり消滅したが、旧若松県民であった会津地方などの住民にとっては、県庁所在地が会津盆地の中にある若松から、奥羽山脈を越えた遠方にある福島へと変わったことで大きな不便と衰退をきたした。 これらの理由から、1881年(明治14年)、「若松県を福島県から再び独立させるべきだ」とする分県運動が起こった。大日本帝国の政府も当初はそれを承認し、1882年(明治15年)には『会津県』の再編成を計画した。 しかし、政府はのちに計画を撤回し、若松県または「会津県」は独立することなく、福島県として留め置かれた(詳細は『分県運動』節で後述)。 この運動を抑えるため、1887年(明治19年)5月25日、旧若松県のうち福島県庁から特に遠かった東蒲原郡が、新潟県へと編入された。 その後、分県は実現することなく、かつて若松県であった領域はそのまま福島県および新潟県の一部として現在に至る。
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