内藤露沾
磐城の平藩7万石城主内藤右京大夫義泰(風虎)の次男義英、その後政栄。28歳の時お家騒動で家老の讒言によっておとしめられ、麻布六本木の別邸で風流によって自らを慰めながら、部屋住みのままに生涯を終えた。宗因門下のなかなかの才能で一流を起こした。芭蕉が『笈の小文』の旅に出るにあたって、「時は冬吉野をこめん旅のつと」と餞した。この句も、餞別吟としてなかなかの出来栄えである。号は傍池堂・遊園堂。西山宗因門弟。後に江戸俳壇を仕切った沾徳は露沾の弟子。
蕉門中最も身分の高い人であった。
蕉門中最も身分の高い人であった。
露沾の代表作
梅咲て人の怒の悔もあり(『猿蓑』)
梅一木つれづれ草の姿かな(『炭俵』)
温石のあかるゝ夜半やはつ櫻(『続猿蓑』)
ものものの心根とはん月見哉(『続猿蓑』)
一時雨またくづをるゝ日影哉(『続猿蓑』)
星さへて江の鮒ひらむ落葉哉(『続猿蓑』)
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