共和政・護国卿時代
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「アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)」の記事における「共和政・護国卿時代」の解説
イングランド共和国体制下のランプ議会は1652年、アシュリーを追加の議員として承認した。しかし彼が議会の中では長老派であったこと(これは当時保守派・非主流を意味した)、及び国王軍に一時加わっていたことなどからあまり厚遇されず、したがって発言力も大きくなかった。こうした穏健派議員達に目をつけたのが、亡命中のチャールズ(後のチャールズ2世)である。チャールズは再三、アシュリーらに手紙で国王復帰の途を打診してきていたが、アシュリーはにべもなく断った。当時はそれが当然の反応であり、チャールズもこの時のことを根に持ったりはしなかった。 情勢が大きく動いたのは護国卿オリバー・クロムウェルの死後(1658年)である。クロムウェルの息子リチャード・クロムウェルは四分五裂の状態にあった国論をまとめきれず引退し、共和政を続けようとするランプ議会と国王復帰を願う勢力が短くも激しく対立した。アシュリーら穏健派はランプ議会を見限り、当時スコットランド方面軍司令官だったジョージ・マンク(後のアルベマール公爵)に働きかけて軍を動かした。 スコットランド軍がツイード川を渡ってイングランドに南進を始めたのが1660年1月2日、マンク軍がロンドンを制圧したのが2月11日であった。ここにいたって議会は自主解散を決めた(3月16日)。これをみたチャールズは4月25日にブレダ宣言を発し、イングランド側も5月8日にこれを受諾した。足掛け22年に及んだ清教徒革命(三王国戦争)は、ここに幕を下ろした。
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