全国高等学校野球選手権大会南九州大会時代
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1957年の第39回大会をもって東九州大会は解体、大分県は熊本県と共に中九州大会を編成し残った宮崎県・鹿児島県・沖縄県で1959年の第41回大会から再び南九州大会を編成するが同年の大会から複数の県を対象とした代表は2県と定められた。しかし当時沖縄県はまだ米国の施政権下にあったため日米をまたぐ代表として特例で認められていたが鹿児島県が単独開催できるだけの校数に到達していたためわずか1年で離脱。1960年の第42回大会から宮崎県・沖縄県の両県が1975年の第57回大会から単独開催するようになったため1974年の第56回大会をもって消滅するまでは宮崎県・沖縄県を対象とした大会であったが日本国の都道府県として複数にまたがっていたのは1972年の第54回大会以降のわずか3年間であった。
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