光慶説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 23:47 UTC 版)
光秀の長男の十五郎光慶は、父に従い本能寺の変や山崎の戦いに参加し、坂本城で自害したとも、亀山城で亡くなったともいわれ、はっきりしていない。生き延びて、京都妙心寺の住職玄琳になったという説もある。 光慶は出家し、妙心寺の塔頭・瑞松院に住して「玄琳」を名乗った。瑞松院は、江戸初期には光秀の妻・煕子の実家である旗本妻木氏が檀那となっていた。また、玄琳の師は大心院主・三英瑞省で、光秀の三女・珠(細川ガラシャ)の夫・細川忠興が旦那となっていた。 妙心寺には「明智風呂」と呼ばれる蒸し風呂形式の浴室がある。光秀の菩提を弔うために建てられたと言われており、国の重要文化財に指定されている。 また玄琳は、「明智系図」(「続群書類従」所収)を作成したと言われている。
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