兄義孝殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 09:12 UTC 版)
永禄7年(1564年)10月7日の夜、孝信は精鋭の16騎の家来とともに、実家である塩谷氏の居城川崎城に侵入し、実家の家督を継いでいた兄の義孝を殺害し、川崎城を占領した。これは、孝信の妻が、那須氏の重臣大関氏の娘で、当時、塩谷氏と那須氏は対立しており、那須氏に加担して起こした事件であった。この時、孝信は、予め川崎城の大手門の門番である木村和泉に内通し、木村和泉の手引きにより、難なく川崎城に侵入した。木村和泉は、川崎城の支城である沢村城の城代を務めたほどの重臣で、義孝も長刀を振るい奮戦したが、信頼していた重臣に裏切られては成す術がなかった。 この時、義孝の子である弥六郎も城にいたが、重臣の大沢隼人康勝に救出され、同じく重臣の山本上総介義宗の宇都野城に逃れているが、2年後の永禄9年(1566年)、弥六郎は、那須氏と和睦し、その那須氏と主家である宇都宮氏、さらに宇都宮氏の同盟国である佐竹氏の支援を得て、孝信の篭る川崎城を百日あまり攻め、孝信は川崎城を落ち延びている。
※この「兄義孝殺害」の解説は、「塩谷孝信」の解説の一部です。
「兄義孝殺害」を含む「塩谷孝信」の記事については、「塩谷孝信」の概要を参照ください。
- 兄義孝殺害のページへのリンク