低地シロンスクの第1次分割(1248年)
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「ボレスワフ2世ロガトカ」の記事における「低地シロンスクの第1次分割(1248年)」の解説
ボレスワフ2世は当初、父から相続したシロンスク公国を分割することなど考えておらず、公国の全権を自らの手中に置こうとしていた。1242年、ルブシュを公国として与えられていたすぐ下の弟ミェシュコが子供を残さずに死ぬと、その遺領はボレスワフ2世の領地に統合された。しかし、ボレスワフ2世はあくまで弟達との共同での国家統治に抵抗したため、反乱が起きた。反乱を起こしたシロンスク公家の若い王子達は、すぐにボレスワフ2世を投獄してしまった。こうした事件のせいでボレスワフ2世は周囲に対して極端に疑り深い性格になり、この性格は国家統治をさらに難しくさせた。 反乱終息のための仮協定として、ボレスワフ2世は1247年に弟のヘンリク3世を公国の共同統治者とした。しかし、共治体制はうまく働かず、1年後に2人は公国をレグニツァ=グウォグフ=ルブシュと、ヴロツワフとに2分した。さらに2人は年少の弟達を庇護することも取り決め、ボレスワフ2世がコンラトを、ヘンリク3世がヴワディスワフをそれぞれ引き取ることになった。ボレスワフ2世は長子として領地を選定する優先権があり、レグニツァを領有することにした。この地域ではカチャヴァとヴィエジュピャクの河川で金が採れるからである。 レグニツァを選んだことはボレスワフ2世とヴロツワフの貴族達との間で起き始めていた紛争を決定的なものにした。貴族達はヘンリク3世が同地域を領しないことに不満を持っていた。間もなくボレスワフ2世はレグニツァ公国に実効的な支配を及ぼすようになったが、次第にこの選択を後悔してヴロツワフを回復しようと試み始めた。ヘンリク3世も新しく得た公国を手放す気はなく、解決方法は戦争だけとなった。
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