伝・徳川家康の墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 05:00 UTC 版)
当寺には徳川家康の墓とされるものが開山堂の跡地にある。当寺に伝わる『南宗寺史』には、「大坂夏の陣で真田信繁の攻撃を受けて敗れた徳川家康は、駕籠に乗って逃げる途中で後藤又兵衛に見つかり、その槍で突かれて辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を当寺の開山堂の下に隠し、後に改葬した」との話がある。しかし、史実では、大坂夏の陣の前哨戦で堺はすでに大野治房によって焼き払われており、当時の堺には当寺も焼かれてしまってなかったとされる。また、又兵衛は家康にまみえたとされる日の前日に道明寺の戦いで討死している。 墓標近くには山岡鉄舟筆と伝わる「この無名塔を家康の墓と認める」との碑文が残っている。当地にはかつて東照宮があったが新しく作られた現在の徳川家康の墓は水戸徳川家家老の末裔三木啓次郎が1967年(昭和42年)に東照宮本殿の跡に建てたものである。碑石の銘には「東照宮 徳川家康墓」とある。
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