伊達輝宗首塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/08 08:00 UTC 版)
天正13年(1585)、米沢城主・伊達政宗の父で当時宮森城に在った伊達輝宗は、二本松城主・二本松義継に拉致され、阿武隈川河畔の高田原において殺害された。当時小浜城に居た政宗は父の遺体を慈徳寺へ運び、ここで荼毘に付した。そのため、「首塚」というよりは「火葬塚」と称するべきなのであろうが、古くから首塚と言い伝えられているという。現在は観音堂裏手の大岩の上に五輪塔の上部二輪のみ残されており、伊達家の家紋が刻まれている。ちなみに輝宗の墓所は山形県高畠町夏刈の資福寺跡境内に、位牌は前述の仙台市の壽徳寺に残されている。
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