他の奇襲について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 02:49 UTC 版)
「ルーネンバーグ奇襲 (1756年)」の記事における「他の奇襲について」の解説
1756年の奇襲に続いて、ミクマク族はそれから3年の間に、さらに8つの奇襲を仕掛けた。1757年、彼らはルーネンバーグを襲ってブリサング家の6人の家族を殺した。翌1758年の3月には、ルーネンバーグ半島の北西部(現在のブロックハウス)を襲い、オクス、ロダーズ両家の5人を殺した 。 1758年の夏、ミクマク族はルーネンバーグ半島で4件の奇襲を仕掛けた。7月13日に、ラブラドル家の男の子2人をラハーブ川で殺し、8月24日に8人のミクマク族がレイ、ブラントの両家を攻撃して3人を殺したが、頭皮を持ち去るのに失敗した。これは、フランスから報酬を得るためのごく当たり前の習慣だった。その2日後、2人の兵士がラハーブの砦への襲撃で殺された。そのほぼ2週間後、9月11日には、北西部への奇襲で子供が1人殺された。 1759年3月27日にも奇襲があって、オクスナー家の3人がインディアンに殺された。最後の奇襲は同じ年の4月20日で、ミクマク族がトリポー、クライトン両家の4人を殺した。
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