五稜郭襲撃計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/28 15:35 UTC 版)
大政奉還の後、蝦夷地は箱館府が治めることとなり、五稜郭で府知事・清水谷公考が政務を執っていた。これに対し、平山は、南部出身の浪人・花輪五郎、八王子千人同心出身の渡辺元長、馬場政照らと、五稜郭を襲撃し、清水谷知事を捕虜にする計画を立てる。慶応4年(1868年)7月5日決行予定であったが、直前に渡辺元長が内通し、箱館府兵に検挙される。花輪らは捕まったが、平山は逃亡、峠下の山中に潜伏する。 その後、箱館戦争で旧幕府軍に加わり戦うが、敗戦後に小舟で蝦夷地を脱出し、仙台、江尻(現・静岡市)を転々とする。 明治7年、七重に戻り、峠下に寺子屋を開く。明治34年(1901年)9月1日、峠下の高田勘九郎宅で死去。享年63。七飯町峠下に墓がある。
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