五灯厳統
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順治10年(1653年)閏6月、費隠は法嗣百癡行先や檀越の徐昌治・李士材らと禅宗の史伝書『五灯厳統』を編修して刊行。南宋の『五灯会元』を引き継いだ南宋以後の僧伝を掲載した。その意図は禅林の乱れをくい止め嗣法伝承の正常化を目指すことにあったが、曹洞宗遠門浄柱の『五灯会元続略』に対抗した内容となっており曹洞宗より臨済宗が優れていることを示した。すなわち六祖慧能曹渓下の南岳系が青原系より優位であり、さらに曹洞宗の晦台元鏡、永覚元賢は嗣法伝承されておらず、無明慧経、湛然円澄についてもその嗣法は不明確であると独自の主張を立てた。これに対して三宜明盂、遠門浄柱らが激しく対立し、その流通を阻止するために浙江省府に訴訟した。この結果、費隠は敗訴。『五灯厳統』の板木は焼毀処分となってしまう。費隠も径山興聖万寿寺を退出せざるを得なかった。その後、三宜明盂とは和解し費隠も径山住持として戻ることを許されている。 明暦3年(1657年)、費隠の法嗣隠元隆琦は逸然性融などの支持を受けて摂津普門福元寺(現大阪府高槻市普門寺)において『五灯厳統』を重刻した。『五灯厳統』は日本で広く読まれ、覆刻本が大陸にも伝わった。
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