久喜代官時代~亡くなるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 02:26 UTC 版)
「早川正紀」の記事における「久喜代官時代~亡くなるまで」の解説
1801年(享和元年)より1808年(文化5年)まで、すなわち正紀が63歳から70歳まで、武蔵国久喜(埼玉県久喜市)で代官を務め、約10万石の幕府直轄領を治めた。尾花沢や久世、笠岡の経験を生かし、久喜では主に建学、治水、止訟を行なった。享和3年(1803年)には郷学遷善館を設立、利根川や荒川の治水に尽力した。また、サツマイモの栽培を奨励している。 1808年(文化5年)江戸で病没。70歳だった。江戸本所の霊山寺に葬られ、墓標も同境内に建設。戒名は「宝岸院殿到誉源姓離染居士」。 他に、遺愛碑が3基つくられている。1809年(文化6年)に埼玉県の大経寺。同年、真庭郡金屋台の大旦芝。1824年(文政7年)、笠岡の敬業館跡地。そのうち、真庭郡金屋台(現真庭市久世)の碑の前では毎年、早神様の祀りが行なわれていた。現在でも、久世には早川代官の遺徳を偲ぶ、盆踊りに似た「早川踊」がある。また、久世の重願寺の一角には、早川代官の銅像が建っている。 1928年(昭和3年)、正五位を追贈された。
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