中洲の街と共に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/04 15:00 UTC 版)
川原は中洲の街に根差した活動にも精力的であった。ひとつは博多祇園山笠の中洲流の結成に携わったことである。戦前には中洲に「流」(山笠の参加組織)はなく、土居流の加勢町の一つであったが、1949年(昭和24年)に中洲流が独立することが決定されると中洲市場の専務理事として中心的な役割を果たし、以後も積極的に山笠に参加した。このためか、現在でもふくやの店内には中洲流の法被をモチーフとしたのれんが使われている。 また、「中洲町連合会」や博多や中洲の商店街、百貨店で作る「博商会」では副会長や会計係を務め、祭りの資金集めや中洲まつりの開催、博多川の浄化といった事業に携わっている。 1978年(昭和53年)には山笠の遠征を企画し、1980年(昭和55年)にはハワイへの海外遠征を計画するが、この年に体調を崩し、その年の追い山を待つかのように亡くなった。67歳であった。
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