中島時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 04:33 UTC 版)
1933年(昭和8年)、水害を減らす目的で、湾曲する石狩川を直線化する切替工事が行われる。しかしそのために対雁川下は、石狩川の旧河道と新水路に囲まれて周りの地区から切り離された「陸の孤島」と化してしまった。他地区との連絡には渡船が必要となり、篠津の高橋太吉が船頭を務めた。 1935年(昭和10年)の町字名改正により、地区の名称が対雁川下から中島へと改定される。そしてこの年の前後、約20年にわたって続いた杞柳栽培と加工品製造は、急速にすたれていった。 1945年(昭和20年)ころに高橋船頭が辞職し、それ以降は対岸まで渡したロープを頼りに小舟で川を越えることとなった。さらにその後、丸太2本の上に平板を敷いた浮橋が2か所に設けられたが、篠津小学校へ通う子供たちが渡ることを考えると、危険であった。1962年(昭和37年)に中島橋が完成したことで、ようやく「陸の孤島」状態が解消する。
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