中尾城・如意ヶ嶽城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:50 UTC 版)
「 如意ヶ嶽の戦い」も参照 如意ヶ嶽は京の東の口、京と大津を繋ぐ経路の一つとして要衝であり、如意城(にょいのじょう)、如意ヶ嶽城、あるいは中尾城と呼ばれる城が築かれていた。正確な所在については諸説あり、慈照寺の裏に当たる中尾山とも、如意ヶ嶽と大文字山の間であるとも言われているが、現在は二つ存在したとする説が有力である。 一つは中尾城と呼ばれ、如意ヶ嶽の北西の支峰、中尾山に遺構が見られている。1549年(天文18年)には12代将軍足利義晴および細川晴元が築城を行ったとされ、『万松院殿穴太記』ではその威容について「名城」であるなどと言及している。義晴は翌1550年(天文19年)5月に没し、嫡男の13代将軍足利義輝は7月にこの城に移り、三好長慶軍と京都で戦闘を行ったが(中尾城の戦い)、11月に落城、焼失した。京都市遺跡地図台帳420。 もうひとつは如意ヶ嶽城などと呼ばれ、如意ヶ嶽山頂・大文字山山頂付近。『応仁記』巻三、応仁別記(15-16世紀ごろ)または大乗院寺社雑事記(1471年、文明3年)によれば、1469年(文明元年)5月に多賀高忠が如意ヶ嶽に布陣したとの記述がある。恒久的な築城がなされたわけではないと見られるが、現在も空堀や土塁などの遺構が残っている。京都市遺跡地図台帳423。 隣接地域には将軍山城、東岩倉山城など、他にも山城が見られる。
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