世襲領確立以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 07:48 UTC 版)
「オレグ・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公)」の記事における「世襲領確立以降」の解説
その後、1098年のゴロデツ諸公会議、1100年のウヴェチチ諸公会議(ru)(リューベチ諸公会議に反したダヴィドに対する協議)、1101年のサコフ諸公会議(ポロヴェツ族との和平交渉会議)、1103年のドロブスキー諸公会議(ru)(ポロヴェツ族に対する連携協議)に参加したことが、ルーシの年代記(レートピシ)に言及されている。 1107年、ルーシの地を襲撃したポロヴェツ族汗シャルカンに対する遠征軍に参加し、ロブナへと軍を進めた。同年のその後、息子スヴャトスラフとポロヴェツ族汗アエパの娘との間に婚儀を結ばせた。なお、自身もポロヴェツ族汗オソルクの娘を再婚相手として迎えており、スヴャトスラフはオソルクの娘の子である。 1115年8月1日に没し、チェルニゴフの救世主大聖堂に埋葬された。オレグの子孫(オレグ家(ru))は、以降のチェルニゴフ公国、ノヴゴロド・セヴェルスキー公国とその分領公国の歴代の公を輩出し、しばしばリューリク朝の他の家系とも権力闘争を繰り広げることになる。
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