一ノ宮の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/19 21:35 UTC 版)
古来より阿間河荘惣社として一ノ宮と呼ばれていた。江戸時代になり、岡部宣勝が高槻藩より岸和田藩に入封した際、領内には一ノ宮がなかった。領内の南郡岸和田浜町には、和泉国四ノ宮と格式の高い積川神社の御旅所があったが、積川神社鎮座地の同郡積川村は幕府領であった。このため、同郡小松里村字北額(山城国淀藩領)にあり、白河上皇の扁額で知られる、積川神社の遥拝所に御旅所を移転させ、その際、領内で古く格式の高い神社を探したところ、矢代寸神社が該当し、岸和田藩の一ノ宮とした。藩主交代や参勤交代の際には、藩主自ら岡部家の菩提寺である泉光寺とともに参拝された。廃藩置県により岸和田藩が消滅に伴い、藩の一ノ宮ではなくなったが、地元民により阿間河谷の一ノ宮として今でも祀られている。
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